トラウマ小説 ◆8◆ まちぶせ

 ワニブチは、練習が終わり帰宅時間になると、かならず、門の手前でぼくをまちぶせている。
 帰りの門は1つしかない。ほかの子どもたちが通ると、「さよならー」と、にこやかに見送っている。でもぼくのときだけは様子が違った。
 
「メシ食えるようになったか!?
 今日もまっさきにぶつけて来た。どこか楽しそうな表情をしているのが気に食わない。ぼくは笑顔で、
「はい、食べてますよ」
 と、両親から言われている通りにしてみせる。すると返って来るのが、
「うそをつけ」
 これもかならずだ。ぼくはくじけず、言われている通りに、
「本当です」と笑顔で答える。事実、家ではモリモリ食べられるようになっていたからだ。
「うそだろう。だってそんなに小さくてやせっぽっちじゃないか。食ってないんだろう?」
 もう本当にウンザリして、相手にしていられるかと思う。だからその場を離れようと、横を通り抜けようとすると、体をずらしてさえぎってくる。そしてヘトヘトになるまでつきあわされる。
 
 これは本気になって対策をたてないと。
 
 ある日ぼくはワニブチに対して、
「食べても太らないんです!」
 と、正直に言ってみた。胸のうちを開放してスーッとした。でもそんな余韻にひたる間もあたえずに、今度
「うそをつくな。食ってないから太らないんだ」と返してきた。
「生まれつきそういう体質なんです!」今日のぼくは負けない。からだのふるえを懸命にかくす
「そんなわけないだろう。食べたら太るだろうが
 なんだこいつは? なにが目的なんだ? いいかげんにしろよそう心のうちでは暴れているが、抵抗すると恐ろしいハメになると思い、口から言葉が出てこない。
 そのまましばらく睨み合ったあと、一瞬のすきをついて横をスルりとすり抜けた。
 やった! と無邪気に喜び、つかの間自分をはげましながら、帰り道を歩いていく。
 
 こんなやりとりが1年以上も続いた。

トラウマ小説 ◆9◆ まちぶせのあと

 家に帰ると、ワニブチとの理不尽なやり取りによって高まった怒りを、どこかへ吐き出したくなる。
「またワニブチコーチが、メシ食えるようになったかって聞いてきた! もうどうしたらいいんだよ!」
「まあ、それはたいへんねえ」と母さんは、あまり感じていない。
 もう一度、「どうしたらいいの!?」と聞くと、
「うーん、どうしたらいいって、食べてますって答えればいいじゃない」
「そんなの……もうとっくに言ってるよ!」
「本当に言ってるの? 言ってないからいつまでも言われちゃうんじゃないの?」
 
 ある日、ぼくは父さんにも相談してみた。いつも忙しそうにしている父さんには相談しづらいのだけど、『本当に困った時は父親に相談しなさい』と、学校で教わったことがあった。父さんの教えは偉大のようだ。
 
「食べてますって笑顔で答えてれば、そのうちわかってくれるよ」
 うん、そういうものなのか。父さんの言葉には重みがあって、口答えできない力があった。ぼくは気を取り直してがんばってみようと、単純に言い聞かせる。でも頭の中の半分は、やっぱりまた繰り返すだろうなという気持ちがぬぐいきれない。
 仕方がないと、ぼくは居間を離れてからしばらく、ふにゃけたツラをしていた。

トラウマ小説 ◆10◆ チャンネルはプロ野球 

 もう下校時間かあ。今日も楽しかったなあ。
 根が脳天気であるぼくは、無我夢中の学校生活を取り戻していた。それでも……
 
 家では夕食のとき、ずっとテレビがついている。プロ野球は毎日だ。うちの家族はみんな野球が好きだから、ぼくにチャンネル権はない。
 やめて。もう聞きたくない。見たくない
 ラッパの音、群衆の怒号。ギラついている画面。チャンスになる度に増す一球の緊張感。盛りたてる実況。ピッチャーがボールを投げ終えて、受け取ったキャッチャーがピッチャーに投げ返す。その都度に生まれる、ゆくえがさだまらない画面と、フワフワした空気……。どれもこれもがぼくの身体をジーッと威圧してくる。そして重たい不安となって、もう頭が押しつぶされそう。
 
「ごちそうさまあ」
 暗がりの寝室に、グッタリと倒れ込む。耳にこびりついた騒がしい音たちと、目の奥に焼きついたあのギラギラした色たちが重なり合って、何度もよみがえってくる。
 もうしばらくこうしていよう……。ぼくは目をつむっていた。目玉はキュルキュルと小刻みに動いている。心臓も高まっている。
 ああ、こうして毎日、ワニブチとの対決や合宿で吐いたことを思い出してしまうんだな。すんごくイヤだけど、家族と暮らしている以上は、どうしてもさけられないことだ。
 
 ある夜、たまりかねたぼくは、勇気をふりしぼって向かっていった。
「父さん、チャンネル変えて。本当は消してほしいんだけど。家にいるときくらい、野球で緊張することを思い出したくない」
 父さんは……んな~に」と大きくかぶりをふって、「ったく、しょうがないね!」とふて腐れてしまった。そして無言でごはんを食べている。
 ぼくは胸がしめつけられる。父さんは、今ぼくがどんなことになっているのかをまったく知らないようだ。苦しみはだれにも分かってもらえないんだ。母さんも、すぐに怒り出してしまう父さんがこわくて、なんにも言えないでいる。
 ああ、どうしたらぼくは救われる? どうしたら、毎日味わうこのつらい夜から、抜け出すことができる?
 

トラウマ小説 ◆11◆ 母さんと外出

 ポカポカ陽気に包まれた休日。今日はなんにもしなくていいい。なにも考えなくていい。
 子鳥たちが木々の枝先で歌っている。心地良さに運ばれてくるように、母さんがぼくに話しかけてきた。
 
「ねえターボー、いっしょにお外へ行かない?」
「うん。どこ?」ぼくは油断していた。
「いいところ」
 イヤな予感がして頭をひねっているぼくに、
「お店入らないからね」と母さん。見すかされている。
「え、だって……
「ね、行こう」
 逆らえない。すんごくイヤなのに、言葉が出ずにモジモジしてしまう。いっそのこと、絶対イヤだ! って叫んでしまえばよかったんだ。いや、叫んでも連れて行くのが母さんだ。優しく誘ってくる母さん。それは、なにか目に見えない力に引き寄せられて、不思議と抵抗できないものなんだ。だって、さっきから5回も「行こう」って誘って来ている。ぼくは断ることにしだいにまいってきた。気がつけばまた下北沢の駅にいる。
 
「お母さん、ちょっと晩ごはんの買い物をしてくるから、駅の辺りで待っててね」
「え、どこで?」
 聞こえていないのか、母さんはその場から離れてしまった。
 駅前は人の出入りが激しく、なんだか落ち着かない。1時間くらいたっただろうか。ごちゃごちゃした駅前をぼくは、ウロウロしているしかなかった。
 立ちっぱなしで、お腹もすいて、のどもかわいて、退屈で……。フラフラしてきたし、もうどうしたらいいのか分からない。やがて母さんが戻ってきた。
 
「まあまあ、ずっとこんな所にいたの。さあ、お腹へったでしょう、どこかお店へ入りましょう」
「え……入らないっていったじゃないか」
「お腹すいてないの?」
「すいてない!」お店になんて絶対に入りたくない。
「お母さんがお腹へったのよ。ターボーは食べなくていいからね。入りましょ」
 やっぱり入るんだ。今度こそ信じてたのに。
 
 母さんと喫茶店のテーブルに向かい合って座っている。間接照明と木目の家具がぼくに、キンタイの合宿の食堂を思い出させた。
「母さん決まった。さあ、ターボーはなに食べる?」
「イヤだって言ったのに! またうらぎったな!」
「あら、お腹すいてないの?」
「すいてるけど、外では食べられないんだよ!」
「どうして?」
「みんながこっちを見てるからだ!」
「見てない、見てない」
「見てるよ! 見られてると食べられないよ!」
「見てないったら!」
「見てるに決まってるよ!」
「見てない! 見てないわよ!」
 たぶん、2人がこんなに大声でやりとりをしていれば、どんな客だって、おどろきとぎもんに満ちた目でこっちを見てくるはずだ。
 1人のお客さんがふしんがると、それがしだいに周りに伝染していく。これがたまらなくこわいんだ。ぼくがめいわくをかけているようで。それなのに母さんは、『見てない』って、絶対にゆずろうとしなかった。
 だから来たくなかったんだ。また母さんがだました。大人ってきたなくて大きらいだ。ぼくは絶対に外で食べられるようになってやるもんか!

トラウマ小説 ◆12◆ おびえ

 いつも怒りをうちに秘めたままのぼくは、だんだんと周りが見えなくなっていった
 ぼくはキンタイでショートを任されていた。となりのサードを守る和光くんと、口をきかない日が続く。
 和光くんはこわい。ややカッとなる性格で、学校では不良あつかいされている。ぼくよりも体の成長が早いため、背が高くて、おまけに端正な顔立ちで、女子からモテている。
 セカンドの藤谷くんは言葉数も少なく、わりと前に出るタイプじゃない。プレーも一つ一つきっちりとやる。和光くんの良き相棒のようだ。
 ぼくは藤谷くんともめったに口をきいたことがない。不良グループと下手に関わったら、めちゃくちゃなことになると思ったから
 この前も、ぼくらと戦ったチームが所属する学校に、ケンカをしかけにに行ったみたいだ。ぼくも誘われたけど、ようやく断ったっけ。
 それにしてもきびしい野球環境の中で、少なくてもぼくは、どこか自分だけのことで精一杯だった。
 
 ぼくの野球の腕はみんなのお墨つきだった。
 一番バッターで、打てばヒット。盗塁したらセーフだ。ショートの守備だって最高に上手い。だれからもほめられる。おだてられる。だから、どんどん周りの人を魅了しなければならないと思った。
 そんな中、どこかでおびえている自分がいる。近い将来への不安から、家庭での食事のときも、壁の一点を見つめたまま動かないでいることがあった。深く思いつめていた。
「どうしたの?」
 そんなぼくの様子を心配した母さんが、声をかけてくる。だけどこたえられないで、なおも壁の一点を見つめる。
 人に解決してもらうことじゃない。自分でなんとかしなくちゃならない。
 
 人前での食事どき。『吐いたらどうしよう』と、強い観念が、どこからともなく差しこんでくる。しかも予期しないタイミングだからこそ手に負えない。ときには食べ物のにおいが少し鼻をかすめただけでも吐き気が生まれてしまい、すぐにその場から逃げ出したくなる。
 自分の意思とは無関係なこの病は、どうしたら治せるのだろう? ぼくは毎日を確実に、もがき苦しんでいた。

トラウマ小説 ◆13◆ カメラ

 いっときチームメイトの親が、練習や試合の風景を、ビデオカメラで撮ることがブームになった。
「只生すっごいうまいんだから、見てみなよ。うちへ来てさ」
 色んな人が声をかけてくれた。けどこわくて無理だよ。
 予想だけど、ビデオを見にそのチームメイトの所へ遊びに行ったら、必ずおやつなり食事なりが出されることになるだろう。でも断る理由はうまくしゃべれないよ。
 そうやって予想を立てていたら、画面に映る自分の姿を、落ち着いて、喜んで見ているような、良いイメージがわかない。予想だけでも、心臓がバクバクしてくる。だから遊びに行く約束ができない。
 なんでこんな予想をたててしまうんだろう。でもそれが自然と身についてしまった。
 
 カメラで映されるのがこわい。下を向く。映されている試合はやっつけぎみになる。
 早く終わってくれ! カメラのレンズが気になって、心臓の高鳴りや、体がブルブルとふるえる中で、やっと1試合を終える。
 良いプレーができた達成感によって、野球生活が支えられている。

トラウマ小説 ◆14◆ 罪悪感

 ぼくはあいかわらず頭をもたげ、考えていた。自身の状態やとりまく世界を。
 食事の誘いや施しを人からもらった際に、その人が納得するような説明をして断らなければならない場面がある。世界は、人と人とのつながりが大切だから、どうしてもその場面はおとずれてしまう。
 でも、『人前での食事は吐き気がして無理です』と断るのは、すごく難しいことだ。だいたいの人が、「は?」となってしまう。普通じゃないことは、うまく説明できないし、理解なんてしてもらえない。
 とくに熱心に誘ってくれる相手の場合はまずい。たいていが、ぼくがものすごく必死に説明するものの、あいまいでイヤな空気が生まれてしまう。そして別離する。つまり、会食恐怖を普通の人に理解させることなんてできないみたいだ。
 誘いをことわる際、いつも罪悪感やせつなさで胸がしめつけられる。
 これから生きていけば、どんどん、人と一緒に食事をする機会が増えしまうだろう。知らない人とも。
 
 今日もいつも通り、テレビ番組やCMでは、これでもか! と食べ物が画面に飛び出してくる。そのたんびに気持ちが悪くなって、でもなんとかたえる。芸能人よりも、食べ物たちが主役みたいだ。
 これだけ世界は、食べることで満ちている。この先ぼくはどうしたらいいんだ。いっそ消えてしまいたい。