トラウマ小説 ◆15◆ 解決

 日々の苦しみから逃れる方法が見つかった! プレーを楽しむことだ
 守備でもバッティングでも、1つ1つを集中して、全力で楽しんでしまうんだ。楽しんでいれば悩んでいるひまなんてない! 
 ぼくはプレーに生きている価値を見いだしていった。その結果、どんどん上達していった。
 
 でも練習が終わるころになると、十中八九、待ち受けているヤツがいる。父さん、母さんの教え。それを信じて実行していたんだけど、まったく効き目がないんだ。それもそのはず、ヤツは意図的にぼくを痛めつけようとしていたのだから。痩せているぼくの身体を心配して、声をかけてくれているわけではなかったのだから。
 まちぶせはあきらかにおかしいのに、周りの大人たちはみんな、ヤツのことがこわくて、とめることをしなかったんだろうよ。それにヤツは、周りの大人にもごまかしがうまかったようだ。
 ヤツとはもちろんワニブチのこと。ワニブチによる帰り道のまちぶせと押し問答は、変わらずに続いていた。
 
 ぼくはいよいよ、ある手段を考えつき、実行した。気持ちを晴らそうと母さんのもとへかけより、思いのたけをぶっつけた。
「ぼくはすごくつらかったんだ! だってこんなことされてるんだよ」
 楽になるために、だれかに理解してほしかったから。そうじゃなくても、少なくても気持ちを拾ってほしかった。でも母さんは、
「そんなこと気にしないの。もう忘れなさい。忘れるのが一番
 と、ぼくの苦しみをなかったことにしようとした。なにもかもが許せない
 恥ずかしい胸のうちをさらけ出した結果が不発。そうしてそこはかとないくやしさとみじめさを味わったぼくは、
『やっぱりこのまま、おいしく残さず、外食ができるようになってはいけない。だれかにこの苦しみをわかってもらうまでは
 と、みずからにちかい、全身に強く力をこめた。

トラウマ小説 ◆16◆ 役者

そんなんじゃ解決しないんだよ……
 真夜中、うなされて目が覚めた。そのあとしばらく眠れなかったけど、がんばって目をつむっているとやがて眠りはおとずれた。
 
話が通じる相手じゃないんだよ。同じことの繰り返しだからこんなに困ってるのに……
 また目が覚めてしまった。どうしたら解決できるのかを考えていたのと、苦しみにくるまれて朝を迎えた。
 
 今度のキンタイの練習のあと、家に帰ってからまた母さんに面と向かって行った。
「どんなふうなの?」
 母さんは決まってこう聞いてくる。これでもう8度目になるだろうか。でも幼いぼくには、正確に説明できるだけのボキャブラリーは持ち合わせていない。『どんなふう』が言葉に表せないから、残るたった1つのしゅだんは、役者だ。役者になって、体験したことを表現してみせるんだ。
 イヤなシーンを思い出しながら、身ぶり手ぶりで再現してみせる。ワニブチの口調もできるだけまねる。全身ヘトヘトになるまでやって見せ、うったえた。
 それでも母さんは理解できない様子を見せる。ぼくはとうとう、こう切り出した。
「もうだまってるのがつらい。みんなに話していいかな、気持ちが悪くなって人前で食べられないこと」
「ダメよ。おかしい人と思われちゃうから」
 そう母さんに言われ、言葉を失ってしまった。
 このままだまっているほうが、よっぽど頭がおかしくなりそうだ!

トラウマ小説 ◆17◆ 距離

「いつか飲み屋で、一緒に酒をくみかわせるのが楽しみでしかたがない」
 
 父さんが夕食のときにそう言い放った。
 はぁ? なに考えてんの?
 そのころにはぼくはもうすっかり精神がまいっていた。だから父さんの言葉に怒りを覚えたけど――
『こうこう、こういうわけで、できないんだよ』
 と、うったえることもできず、かなわない自分の悩みににくしみを抱いて、しかめっつらをしていた。
 そうしてだまりこくっているぼくを横に見ながら立ちあがった父さんは、
「オレとじゃイヤか、ふふ……
 と、食卓をはなれていった。
 また言い分を聞いてもらえる時間をあたえてくれなかった!
 
 誤解でも父さんを遠ざけることになってしまったことでの、はげしいくやみ。そしてどうしても思い通りにできない病に対するいきどおり。これらから罪悪感を育みながら、自分の中からどんどん魂が遠ざかっていくような意識の薄れの中で、夜もひどく長く、苦しみが永遠に終わらないようだった。

トラウマ小説 ◆18◆ 新しいチームメイト

 キンタイの練習のあとは、だれも一緒に帰ってくれなかった。
 そこへ、児島(こじま)くんがチームに加わった。前から野球に興味があったようだ。
 児島くんは明るくて活発でやんちゃなクラスメイト。人気もあった。  
 ぼくと児島くんはすぐに意気投合した。どうやらお互いに意識をしていたみたいだ。だから、どちらからともなく声をかけ、キャッチボールの相手になった。
 よっしゃあ! 心おどるような毎週日曜日がはじまった。児島くんは、なんて頼もしい存在なんだ。そして楽しくおしゃべりしながら帰るようになった。でもそんな喜びも、ほんのわずかのことだった。
 
 練習の帰り道、ふいにぼくから離れていった児島くん。うっすらと、イヤな予感はしていた。2人で一緒に帰るときも、ワニブチの動きがなにやらあやしかったから。
 ぼくはさびしさにたえられず、背中に声をかけた。
「コジ、一緒に帰ろうよ」
「イヤだよ」
「え、どうしたの? 最近変だよ」
「だって、只生とくっついてると、オレのほうに標的がまわってくるんだもん!」
「え……
 急に冷たくなった児島くん。そんな理由があったなんて。
 仕方なく1人で帰ることになると、またもやしつこく、そして堂々とぼくをまちぶせするワニブチがいた。
 
 ぼくはしばらく児島くんをにくんだ。クラスでも顔を合わせたくなくて、近づくとそっぽを向いていた。
 それから数ヶ月たって、なんだかうやむやにしていることに、とうとうたまりかねたぼく。ある日の教室での掃除の時間、ほうきを持ってほかの人とおしゃべりをしている児島くんに、つめ寄っていった。
「ひどいじゃないか! なんであんなことを言って、ぼくのことを遠ざけたんだ?」
 すると児島くんは、
「だって親に相談したら、ああ言えって言ったんだもん」
 ショックでなにも言い返せなかった。子どもの世界で、人様の親が存在する意味は計り知れない。事態はぼくの力ではどうすることもできない。
 
 それから3日間くらいは、なにも手につかないし、なにも覚えていない。     
 うなだれていたぼくはやがて1つの答えを出す。
『児島くんはぜんぜん悪くない。悪いのはすべてワニブチだ! ワニブチがいるのがいけないんだ!』
 と、ワニブチをうらむ気持ちをよりいっそう高めた。

トラウマ小説 ◆19◆ レギュラー

 今、5年生の合宿に来ている。ぼくにとっては二度目の合宿だ。決死の覚悟でのぞんでいる。
 
 もちろん食事の時間がくる。ぼくは頭をフル回転させ、食べられる術を考えていた。ここが本番だ。そうして、やっと食べられるかな、と思いはじめたとき、ワニブチがそばに寄ってきた。
 
「なんだ、食べられるならコレ全部食べろよ」
 こんなに接近してきて……
 1度に全部食べろって、無理だよ。あの暑さの中のしごきで、バテバテなのに、モリモリ食べられるわけがないじゃないか。お腹はペコペコだよ。でも、少しだけ食べたら、もう全部食べないと許してもらえないんだろ。たいへんだ。いっぺんには食べられっこないよ。こんなふうにいたぶって、だれもヤツのことを注意しないんだ。大人たちはみんな、なにを考えてるんだ。
 
 次の日も、もうれつな炎天下でのしごきは続く。
 ぼくは空腹で動けない。水を飲ませてほしい。ぼくの守るショートにばかりノックが飛んでくる。わざとだ。なにも食べていない、なにも飲んでいない体は、もはや限界だ。ノックは飛んでくる。ぼくは動けない。でも、立っていた。ジッとその場に立っていることだけはできた。レギュラーは守るんだ。倒れなければ守れるんだ……。
 目の前がまっくらになったり、また戻ったりしている。
「なにやってんだ、只生ー! 動けー!」
 綿イシコーチの声はうっすらと耳に入る。もう何度目だろう、呼ばれたのは。
 ジリジリと照りつける太陽に、いつしか、もう汗すら出てこない体。それでも、守備の基本である足を開いて低く構える姿勢を保つ。ぶっ倒れるのを、レギュラーを外されたらこのあと生きてはいけないという、強い意志が支えていた。
 練習場をあとにすると今度は、まるで崖のように急で長い山道を、走らされて宿へと戻る。一度も倒れずに自分を守ることができた。

トラウマ小説 ◆20◆ 我慢

 けっきょくまる1日、食事のひとかけらも胃に入れられず、就寝・消灯時間になってしまった。
 ぼくは部屋で発狂した。お腹がすき過ぎたんだ。そんなぼくに、同部屋になった児島くんが言った。
「さっき食べればよかったじゃん!」
「どうしても……無理なんだよ!」
 ぼくは宿の中をウロウロした。どこへ向かうという目的よりも、空腹をなんとかしなくてはという必死の思いだった。
 とうとう1人のコーチと出くわした。でも、
「朝メシまで我慢しろ」と、まるで相手にしてくれない。
 ぼくに死ねって言ってるの?
 またウロウロせざるをえなかった。
 なにか食べさせてー! 食べさせてー!
 ぼくはこのとき、心の中で叫んでいたつもりだった。だけどひょっとすると、建物中に響きわたる大声を表に出していたのかもしれない。それはもはやはっきりとしない。
 
 今度はさっきとは違うコーチとぶつかった。綿イシコーチだった。
「おい、なにをしてるんだ? 寝る時間じゃないか」
「お腹がすいて眠れなくて……
――ん、さっき食べなかったのか」
「はい」
「じゃあ、仕方がないな」
 なんとなくホッとしたのは間違いだった。綿イシコーチはぼくを自室まで連れ戻してから、「朝まで我慢だ」と言い放ち、去っていった。
 
 眠るしか耐える方法はない。無理やり床につく。
 たくさん時間がたち、ようやく眠れても、お腹がすいて起きる。それを200回くらいは繰り返したのだろうか。意識はもはやおかしい所にある。眠ったのか眠らなかったのかも、ぼやけている。ただ、だ液がたえ間なく出てくる。
 ひと晩が長く、1年もたったかのように感じた。ぼくは刑務所に入っている人を想像した。
 
 とうとう朝の6時、起床時間がおとずれた。児島くんがぼくの体を持ち上げようとしてくれている。ぼくは半分眠りこけた意識を、フッとそばに向けると、まるでおもらしをしたかのようなシミが、まくらにも、シーツにも。これが大量のだ液だと理解するのに、少し時間がかかった。
 地獄が終わった……。窓から差し込む日差しが、ほんの少しの喜びと、希望を感じさせてくれる。でも、はらぺこだ。
「もう、うるさくって全然眠れなかったよ!」と、大声を出す児島くん。 
 ぼくは、『はっ』とした。

トラウマ小説 ◆21◆ はげまし

 さあ、朝食だ。
 極度の空腹を感じていたぼくは、真っ先に食べはじめた。くっそおいしかった。でも少したってから吐いてしまった。目の前に映るのは食べ物ではなく、ワニブチの顔だった。
 それからはみんなの視線が気になって食べられない。
 
 これまでのあまりの様子を見かねたのか、うちの学年のチームのもうひとりの指導者である柴ザキコーチが、ぼくのそばに寄ってきた。柴ザキコーチはいつも元気で面白くて、情に熱くて、ぼくは好きだった。
「只生、食べられないのか?」
「うう……」うめき声のほかにはなにも言葉が出てこない。すると、
「おいしいと思えば食べられる! ほら、どうだ?」
 ぼくは全身を震わせながら、食べたくないという意思を無視して、箸で無作為につまんだ物を口へ持っていく。そして飲みこもうとする。
「おいしいって言うんだ」
「おいしい」なんとか声を出す。
「ほら、食べられる」
 飲み込んだがすぐに、「オエッ」と吐き出した。柴ザキコーチとワニブチコーチの残像が、頭の中で重なる。この空間では、とても美味しいだなんて感じることはできない。でも、柴ザキコーチの情にこたえたくて、何度も「おいしい」と言ってみせる。条件反射で。
「そら、おいしいだろう。ほら、もっと」
 ワニブチがきっとどこかでこのやり取りをうかがっているはずだ。ぼくと柴ザキコーチはあまりに周りから目立ち過ぎている。食べられないよ。早く離れて。あっちへ行って
「おいしいって思えば食べられるんだから。ほら、おいしいだろう?」
「オーエーーッ」と、からっぽのお腹からはそのうち胃液しか出なくなり、口からあふれて糸を引き、床とくっついたままに。そのまま数分が過ぎる。
「エッ」と吐ききったまさにその瞬間で体が固まって、もとに戻れない。椅子は引かれて、腕はなにかを持ちあげようとしているかのよう。恥をも捨て去った姿勢だ。
 コーチはあきらめて、
「しょうがないな。また来るぞ」と言い残し離れて行った。助かった……
 でも喜んではいられない。けっきょく、食べ物のひとかけらも胃の中に残すことはできなかったのだから。
 
 炎天下の急斜面で、また地獄のランニングがスタート。