トラウマ小説 ◆1◆ はじめての合宿

『楽しい! 毎日が楽しい! 学校も先生も友達も、父さんも母さんも、だーいすき!』
 そんな毎日だった。小学4年生の、あの野球の合宿で起きた事件までは。
 
 1年で1番暑い日。ぼく只生(ただお)らの野球チーム、キングタイガース(キンタイ)は新潟県の岩原へ来ている。うわさに聞いていた鬼の合宿だ。
『みんな悲鳴をあげるぐらい、きついらしいぜ。それに宿のメシなんて、もう大人の大盛りぐらい出されて、全部食べないといけないんだぜ』
 そう聞いていた。
 ぼくはもうずっと前からイメージトレーニングをしていたし、家でもモリモリ食べる特訓をしていたんだ。だから、不安なんてみじんも感じないさ。
 そして今日、6年生チームにいるぼくのお兄ちゃんと一緒に、この合宿にいどんでいる。
 
 ピッ! とコーチに笛を吹かれ、山のとんでもない急斜面をかけおりていく。まもなく、ひざが崩れ落ちそうだ。
 やっとの思いで練習場に着くと、いつもより倍はキツい練習が待っていた。練習の合間では、たったの一度しか水を飲ませてくれない。太陽がようしゃなく照りつける。
 夕方になり、今度は急なのぼり坂をぜえぜえと、やっとの思いで足を運び宿へと戻る。ひざの笑いがとまらないでいる。
 お風呂へ入り、少ししてから、
「おい、メシだ。メシだぞー!」
 と、コーチの声が聞こえてきた。
 
 食堂は広いレストラン風の造りで、淡い色の間接照明が印象的な空間だ。食べる前に、コーチが言う。
「いいか、残さず全部食べるんだ。食べられなかったヤツはレギュラーを外す。そして明日さらに、しごくぞ。いいな」
 ついにこのときが来た。ああ、ドキドキする。

トラウマ小説 ◆2◆ 発端

 うわさに聞いていた特盛のごはんが、目の前に用意されている。
「うへぇー」と、あちこちでおどろきとため息が聞こえてくる。あれほどバテたあとなんだから、食欲なんてあるはずがない。でも、逃げ道はもちろんない。
 どこからかピッ! という笛の合図がしたので、みんなでいっせいに食べはじめた。負けん気の強いぼくは、周りも見ずに猛然と食べすすめる。
 そしてものの5分でたいらげた。
 ものすごい量だった。でも、もう食べ終えたからぼくは安全だ。みんなは特盛の前にため息をついて、なかなかはしがすすんでいない。ぼくは、(ダセえよみんな)と、勝ちほこり愉悦にひたっていた。
 
〝このおごりが、のちの人生を左右していたのかもしれない〟
 
 少しだけ緊張しながら、ときが過ぎていく。
 不意に、左うしろの6年生チームの辺りで、なにやらワニブチコーチがだれかをいびっている様子がした。
「おい、もう限界か? なにやってるんだ。早く食べろ」
 食堂の空気は異常なほどに、ピリピリしている。
 つぎの瞬間、ぼくはおどろきのあまりガタンッと椅子を引いた。見るといびられていたのが、ぼくのお兄ちゃんだったからだ。え、お兄ちゃんがかわいそうに! ワニブチコーチは続ける。
「おい、食べられないのか? ったく、なにやってんだ。今村家ではいつもこうなのか? え、今村家では!」
 今村家ではだって? まずい、今度はこっちへ来ちゃうよ!    
 ぼくは立ちどころに、強烈な不安と恐怖を覚えた。そしていっぺんにたいらげてしまった食べ物が、気持ち悪さとともに口からゴボッと溢れ出た。視界に入るすべての目という目が、矢のようにぼくに向けられた。
「おい、どうした?」
 ワニブチコーチがのそのそと、こっちへやって来る。そして今度は、いびる対象がぼくに変わった。
 ゴボゴボゴボ……。「なにやってんだ!」ワニブチコーチがそばにいる。ゴボーッ! 「おい、なにやってる!」オーエーッッ!
 あっという間にすべてを吐き出してしまった。
 
 つぎの食事でも、ぼくには変化が現れていた。食べ物を口に入れる前も、入れてからも、油のニオイで吐き気がやまない。おえつが食堂中に響きわたる。おどろいた顔や、冷めた顔をして、みんながぼくを見ている。こんなのみっともない。
 ぼくをのぞくみんなは、暑さの中の特訓に慣れたのか。それとも空腹のため特盛りのごはんを食べずにはいられなくなったのか。いずれにしろ、ワニブチにいびられる人はだれ1人としていなかった。
 
 ぼくはだれもが油断しているときにコソッとたいらげてしまいたいんだ。途中じゃダメ。休まずにすべてたいらげないと、またワニブチがおおいかぶさってくるんだから。たいらげてしまえばもうなにも言われることはないはず。
 辺りはシーンと静まり返っている。なかなか隙が見つからない。ワニブチがこっちへ来るかもしれない。どうしてもダメだ、気持ちが悪い。オエーッと独り、なにも食べていないのにおえつが続いた。

トラウマ小説 ◆3◆ 発狂

 帰りの新幹線。青い海に、緑いっぱいの山々。景色はばつぐんだ。
 発車してから1時間がたち、ぼくのがまんは限界をこえた。すばらしい景色に水を差すようにして、本性が表へ飛び出したのだ。
「だれか食べ物をちょうだい! お腹すきすぎて死ぬー!」
 沈黙から突然の錯乱状態を目の当たりにしたみんなは、呆気にとられている。
「死ぬー! なにかあるでしょ、ちょうだいよ!」
 と、ぼくの必死のうったえに、
「そんなにだったのか」
 と言う綿イシコーチの救いの声が聞こえた。
 
 綿イシコーチはぼくらの4年生チームのリーダーだ。普段から温厚で優しい。とても頭が良くて、会社ではえらいポストにいるようだ。そして野球のことになるとけっして妥協をしない、熱い面もある。
 そんな綿イシコーチに差し出されたのは、とっても小さなお菓子が1つ。これをあっという間にたいらげたぼくは、
「もっとちょうだい!」
 お腹が満たされるのは、はるかかなたに感じたから。ぼくはあっちこっちに体を向けて、「ちょうだい!」と叫び続けた。本能が食べ物を必要としている。でも、だれもくれない。2泊3日の鬼の合宿を、ほぼ空腹で終えたぼくは、ここでとうとう発狂した。いくら我慢強いからといっても、限度というものがある。
 もういいかげん叫び疲れたころに、周りの様子が見えてきた。すっかり慣れ切って、眠っている人がたくさんいる。友情はないの? と、悲しく思ったぼくは、人目をはばからずに、その場で大泣きしてしまった。
 
 家の玄関を開けたとたんに、「あー! お腹へった!」と、叫び出したぼく。おどろいた様子の母さんだったが、つぎつぎにごはんを用意してくれた。
 やっと助かった……
「まったく食べられなかったの? どうして食べられなかったの?」
 いつまでも不思議がる母さんだった。

トラウマ小説 ◆4◆ 痩せた体

 あの合宿の直後、ぼくは家でもあまり食べられなくなり、ガリガリに痩せてしまった。
 夏休みを終えた学校では、「どうしたの?」と、心配してくれる友達がいる。その友達の目はわずかに瞳孔が開いていて、ぼくの体に向けられている。
「いや、どうもしないよ」
 ぼくはだれにもバレたくなかったんだ。合宿で吐き過ぎたことは大恥だったし、バレたら絶対にきらわれてしまうと思ったから。
 でも学校には当然、野球のチームメイトがいる。いつもとうとつに、「只生がな、合宿で――」と、ぼくの周りの人に、意地悪なちょっかいをしてきて、そのたんびに、「やめろ!」と必死で追い返さなければならなかった。すると、
「なにかあったの?」
 当然、友達は不思議がる。
「なんでもないよ」
 そのうち、自然とぼくを追いつめる声は消えていった。たぶんほかのだれか優しいチームメイトが、『もうやめようぜ』と陰で助けてくれたんだろう。

トラウマ小説 ◆5◆ 給食

 学校には当然だけど、給食の時間がある。朝からなにも食べていないからはらぺこなのに、ウッと吐き気がするという、分裂状態。ぼく自身わけがわからない。
 やがてとことん悩み抜いて、こう結論づけた。
 
『給食でさえ食べられなかったら、死ぬな』 
 
 これはつまり、拒食で死んでしまうということ。全力でさけなければならない。ぼくから迷いを消し去ったのは、それこそキンタイで培われた根性だった。負けん気と根性が、ぼくをがむしゃらにつき動かしたのだ。
 
 それからというもの、ぼくはクラスでだれよりも一番先に給食を食べ終えるようになった。足りなくておかわりも毎回した。どこかしらで意地が働いていたのかもしれないな。
 
 でも、食べられるのだけど、実は内心では不安だらけ。食べてる最中にいつ襲ってくるかもわからない吐き気という魔物が、頭に巣くう。その不安のいっさいを取っぱらうように、いつしかバケモノのように、だれとも会話をせずにものすごい勢いで給食をたいらげるようになった。
 はたから見ればすごく滑稽な姿だったろうけど、もはや見た目なんか気にしちゃいられない。本当に恥ずべきことは、残すことと、吐いてしまうことだから。もう、バケモノでもかまわない。

トラウマ小説 ◆6◆ 恐怖

 ぼくはそんな風にして学校で、内心ビクビクしながらも、給食やお弁当を残さずに食べていた。
 
 また、家でもマシになっていた。まだ子どものぼくには、柔軟性があったのかもしれない。ただ、それ以外の場面ではまるでダメだった。
 
 前にも少し言ったけど、
『人前で吐いてきらわれたらどうしよう』という不安と恐怖に支配されて、日常生活を送っていた。
 それらの思いは、普段からぼくが軽蔑している人に会ってしまったとき、強く働いた。だけどそれよりも、とくに尊敬して好意を抱いている相手には、さらに強く働いた。
 面白い先生や、親友になれそうなほど気の合う人。せっかくお互い好意を感じ合っているのに、ぼくのその病的な部分があらわになると、大事な部分がくずれていってしまうんではないかという、絶望にも似た恐怖。別の言い方をすれば、吐くという行為そのものと、きらわれてしまったらどうしようという、2重の恐怖だ。
 さらにぼくを悩ましくさせたのは、母さんがその症状のことを誰にもしゃべるなと言っていることだった。

トラウマ小説 ◆7◆ 空腹にたえて

 毎週日曜日。キンタイの練習のために朝早く起きる。一週間に一度やらないとダメな、もはや儀式。そしてやっぱり儀式の前は、なにも口に入らない。
 まずはじめにやるのが、学年をごちゃ混ぜにした、チーム対抗リレー。ぼくはいっつも興奮と緊張でのぞんでいたから、はらぺこでいないと、まず吐いてしまうんだ。
 そのあとはもちろん、なにも食べないで4時間、みっちりと練習を受ける。
 
 キンターイ……ファイッ「オウ」ファイッ「オウ」ファイッ「オウ」
 大きな公園をぐるりと走り、休む間もなく、ストレッチをしごかれながらたっぷりと。骨が折れる。練習の時間はまだたっぷりと残されている。
 練習場である学校に戻ると、空腹が体を強烈におそう。それでもきびしい練習がはじまると、レギュラーを外されたくはないという意地が働き、動く。 
 刺すようなお腹の痛みで、しだいにむしばまれていく体。それでも無理やり、華麗にプレーしてみせる。レギュラーだから周りに認められていないとダメだ。野球のプレー自体は、飛び跳ねるほど楽しいものだ。なにか食べたい欲求は、うちに帰るまでわすれたフリ。でも体は正直なもので、口の中では、だ液が絶えずビチャビチャと遊びまわっている。